超単純馬鹿野郎

観念と現実

 

 

昨日読んだ評論文は、

若い人は観念的な世界で生きていて歳をとった人は現実の世界で生きている、というような話だった

 

 

 

若い自分が発する言葉というのは、経験という裏打ちが無くて薄っぺらくて軽い。所詮観念的なものでしかない。

 

 

大人になればそれなりの経験を積んで、言葉に重みが出てきて、人生とは何かをわかる。現実を生きている。

 

 

とかなんとか、そういう内容だった

 

 

 

 

それでだ

 

その若い自分と年をとった自分を見つめる“もう一人の自分”がいて

 

その自分は

 

若い時は若い時なりに必死に、120%で色んなことを考えたり発言しているけれど、大人になってからの発言に比べれば薄くて青くて「若いなぁ」と見つめるんだって。

 

 

 

 

 

 

先生は「本読んだくらいじゃあ人生なんか分からないよ」「若いあなた達が人生わかったような事なんか言えないよ」

 

 

 

なんて言っていた

 

 

 

 

 

この文章の中にも、先生の言葉の中にも青年軽視という意味は含まれてないのかもしれないのだろう

というか事実を述べてるだけであって

 

 

 

なるほど確かにわたしも過去の自分を厭っているし、クソみたい軽かったなぁと思っているけれど

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

過去の自分のことと

それを厭っていることを

 

他人から言われたら腹が立つのだな

 

「あなたって昔は軽かったよね、子供だったよね、若いよね、イタかったよね」

 

たとえそれが褒めるための枕詞でも

 

 

 

 

 

 

 

まあその事は置いておいて

 

 

自分自身が昔の自分を軽視しているから

昨日の話=青年軽視

という読み方になりがちだった、あくまでなりがちだっただけ。

 

 

 

 

 

 

 

やっぱり結局は時間なのかなぁと思ったり

 

でも時間だけ経って中身空っぽの大人なんて周りに沢山いるし

 

大人だということを振りかざして他人に意見を強要したり、無闇矢鱈に若者を煽ったり、現実を教えてくれなかったり、「人間とは、女とは、こういうものだ」と一辺倒に語ったりする大人もいるし

 

 

 

時間も経験も大事だけど時間や経験“そのもの”が大事なんじゃなくてその質だったりそこから自分がどう考えてどう行動するかだと思ったな、あら?ありきたり過ぎる結論。

 

 

 

 

 

 

 

 これは大人も子供も関係なく

○○でないといけない!(should)

○○はいけない!(bad)

なんてよく言うけれどほんとにそうなのか

 

 

みんなと一緒に就職出来ず就職浪人する事の何がいけないのか

 

友達にハブられてひとりぼっちなのは何がいけないのか

 

奨学金の返済を30まで返済し続けるのは何がいけなのか

 

 

 

 

そもそも“いけない”と考えること自体あまり意味の無いことなのではないかなと思う

 

 

いい悪いの区別をしているのは自分の頭じゃなくて世間体だ、たぶん、自分の頭でものごとを考えていなかったり感情に流される人はほとんど、

 

 

 

いけない!と思うことの裏側に何かあるんじゃないか?

その物事の円グラフがあったとしたら、いけない!の100%でしか占められていないのか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「若い時は観念的な世界で生きている」らしいけど

 

昨日の話を読んでからなんか、観念的な世界で生きていた自分も大切にしないといけないのかもとか、思った

 

 

 

 

 

 

 

まあ〜それも全部観念的なんですけどね〜〜!!!!!

 

 

 

 

 

でも知識は大事なのだよねやっぱり何事も

 

 

 

そういや、小論文のテキストに内田百間ともう一人、現代評論家の人の文章が並べられてたんだけど

 

内田百間

 

知識の詰め込み教育が否定されつつある時代で、「どうせ忘れてしまうのに覚える意味あるのだろうか」なんて考える人がいる

でも、一度覚えて忘れることとそもそも覚えていないことは全く意味が違って。

覚えた上で忘れたら調べればいい。調べた時改めて「なるほどそうだったな」と覚え直すことができれば、その知識はそれ以降の決断に大きく関わることになる

 

というような事をいってて

 

もう一人のひとは

アクティブラーニングが叫ばれる時代だが、

そもそも、ものを考えるということは数え切れない知識の上に成り立つものであって。その知識のないまま物事の本質を理解しようと思っても理解できる人なんて誰1人居ないと。

学校教育において、先生の話を一方的に聞く受動的な授業であっても、その話に生徒が惹き付けられて、たくさんの知識を与えられて、あっという間に授業が終わってしまうような、そんなことが出来るのなら無理にアクティブラーニングをする必要は無い。

って話だった

 

 

 

 

 

 

んーーーーーーーーなるほどね〜〜っておもったよ

 

 

確かに考える考える言ってもね、知識がなきゃね、無意味だ

 

 

 

昔の私は知識のないまま考えてたんだわぁとか、(でも考えることと悩むことは違うな)

色々思った

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ん〜要するにまだまだ足りねえんだ。

そうそう、毎度毎度同じ事しか書いてないけれど足りねえんだ

 

きっと私のこの言葉もこのブログも大人になったら「若いなぁ」なんて思うのだろうな〜〜

 

 

でもその時に、その言葉の裏にマイナスではなくプラスの感情が持てていたらいいな、なんて思った授業だったよ〜

 

 

 

 

 

 

 

 

 

やっぱり国公立大現代文楽しいし、考えられるから好きなのだな、あと先生が好き。